小津安二郎「東京物語」を見る

久しぶりに「東京物語」を見返した。映像が白黒である以外は、古いとか時代遅れだとかまったく感じない。

 この映画のテーマを端的に言えば「夫婦」「親子」「家族」とか、「老後」「死」、もっと言えば「人生」ということだと思う。しかし、そういう言葉では説明できない別の何かが描かれているように感じる。描かれているというよりも、その「何か」が2時間という映画全体を包み込んでいるような感じがする。そしてその「何か」が人を惹きつけ、それは時代や国を超えて人の心の深いところに届くのだと思う。そのために小津の映画は、今でもまったく色褪せることなく、多くの人を惹きつけている。

では、その「何か」とはなんだろう?これまでもいつもそのことは気になっていたが、それを私の少ない語彙で表そうとしたとたん、大切なものがこぼれ落ちてしまう感じがしてうまく説明できなかった。

 しかし、今日見ていてその「何か」が見えた気がした。

小津の映画のなかにある「何か」とは「無」という概念ではないだろうか。

 いや、概念とはちょと違う。小津は「無」というものを説明してるわけではないのだ、小津は「無」そのものを私たちの目の前に「ほら、これが無だよ」といって見せてくれているように感じた。映画のなかには登場人物がいて、ストーリーがあり、人物の心の動きがある。それらは「家族」であり「親子」であり「夫婦」であり、そこで描かれる心情は「孤独」だったり「生きる寂しさ」だったりする。それらは、例えば星のようなものであり、大きい星、明るい星、青い星など色々あって、それらを組み合わせてストーリーが出来上がったり、心の動きが作り出されたりする。ほとんどの映画では、この星々(人物やストーリー、気持ちなど)を描くだけで終わっているのだが、小津の映画には、星とともに、星が浮かんでいる宇宙、つまり別のことばで言えば「無」が感じられるのだ。

 葬式の後、周吉が日の出を眺めるシーン、ここは感情を超えた何か、つまり「無」というものをいちばん感じやすいところだと思う。

こ こまで書いてきて思うのが、自分が感じたことや考えていることを言葉でまとめるのは本当に難しいということ。自分でも何が言いたいのか収集がつかなくなる。なんか突拍子もないことを書いている気もしてくるのだが、ふと思い出したことがある。

小津のファンの方ならご存知と思うが、小津は自分の墓石に名前や戒名ではなく「無」の一字を刻んでいる。だから、それが映画のテーマだろうという安直な考察では勿論ないが、無というものは小津にとって大切なものだったことは間違いないだろう。